武川建築設計事務所

この事態に思う

2020.04.06更新

連日世界中で新型コロナウィルス感染拡大のニュースを耳にし、先の見えないおぼろげな不安を常に感じる毎日です。これからどうなってしまうんでしょうか。こんな地球規模で混乱が起きるような事件は生まれてこの方経験したことがなく、住んでいる場所・人種・信じる宗教関係なく皆一様にして身近に危険を感じるという未曽有の大災害が現実に起きてしまいました。

春先は花粉症の僕にとってはくしゃみ鼻水頭痛に悩まされる苦しい時期ですが、本当に必要な人達が買えなくなってはいけないと、使い捨てマスクの使用を我慢し、節約して少しづつ使っていたトイレットペーパーもついに尽きようとしています。官房長官が備蓄は十分あるので安心してくださいとコメントしてから幾日経ったでしょうか。相変わらず都内のスーパーやドラックストアの店頭には並びません。
トイレットペーパーについては、むかし旅をしたインドで鍛えた「不浄の左手」があるので僕自身はそれほど心配していませんが、こどもや嫁にはできれば不便な思いをさせたくないところではあります。

打ち合わせや学校の授業、会合も次々に中止となっていますが、そうやってできた空いた時間にずっと読めなかった本を読んだり、子どもと向き合ったり、仕事の事務的な部分を諸々を見直したり、なおざりになっていたことをまとめて消化する時間を作りながら何とかポジティブに向き合おうとあれこれ挑戦してみる毎日です。

ふと一息ついて、いつもは見ないTVの情報番組を眺めたりゴシップ好きの嫁と情報交換したりしながらこの状況を俯瞰してみてみると、社会の秩序なんて思ってたよりもずっと弱いんだなとしみじみ感じてしまいました。

手厚い社会保障と科学技術に支えられた便利で快適な都市生活でしたが、ちょっとしたきっかけで不安が広がり、噂話の拡声器たるSNSで嘘も真もごちゃまぜの情報が広まり、パニックが起きて、いとも簡単に多くの人々が冷静な判断をできなくなってしまう。人の密集度が高くなる都市部ではなおさらパニックが加速してしまうようです。子供の頃に大好きで読んでいたH.G.ウェルズやジュール・ヴェルヌのSFに出てきそうな展開(星新一とか安部公房のシニカルなやつの方が近いかも)が、まさに目の前で起きている感じです。

もちろん、現代社会の発展を否定する的な気持ちは全く無くて、個々の力よりも集団での強さを求めることで人類が勝ち得てきたものはもちろん尊いし、そのおかげで今まさに僕のような弱い個人が家族を抱えて食べていけたり、こんなふうに考えていることを世に発信できている現状には先人たちへの感謝しかありません。ただ、自分を含め個人の生きていく力がとても弱くなってしまっているなということを感じています。

「生活」と「消費」

東京のど真ん中で暮らすうちの家族(嫁、こどもx1)は共働き世帯で、平日は子どもを延長保育のある幼稚園に預け、週末は車でデパートや郊外のショッピングセンターに出かけるというまさにごく一般的で現代的な都市部の家族です。
収入は多いわけではありませんが、病気になっても保険で十分な医療が受けられるし、こどもの教育としてなんとか習い事を2つ3つさせてあげられています。日々の暮らしになんの不便さを感じることはありませんでした。そんなある日、ふと見た知人のfacebookの記事がとても心にひっかかりました。

その知人は僕と同じように都市部に暮らしていましたが、意を決して田舎へ移住していました。周りは山に囲まれ、僅かな平地には水田が一面にはられるような、いわゆる里山です。血縁者が住んでいたわけでもないその場所で一から生活を作り上げていくほほえましくも逞しい奮闘記が綴られていました。その中のある日の投稿でした。

来る冬に備え親子で薪割りをしている写真。親の薪を割る姿を真似て、4歳になるこどもも一緒に薪割りを手伝っているシーンです。なにか引っかかるものを感じて、しばらくその投稿が頭から離れませんでした。なぜそれに引っかかりを感じたのか、最近になってやっと明確なことばになってきました。それは、その投稿で垣間見られた中に「生活」があったからだと思います。

週末のお出かけで訪れるデパートやショッピングセンターのキッズコーナーはこどもを大興奮させてくれるし、遊園地で観覧車やゴーカートに乗るのもまた然り。こどもが喜ぶ姿を見るのはとても幸せな気分にさせてくれますが、お金で楽しい時間を購入する感覚です。近所の公園もまた大きな目で見れば納税の対価として作られた、安全を担保された疑似自然を体験できるサービスみたいなものです。
それは娯楽であって、生活というよりも「消費」という言葉の方が近く、本来人間が生きていくための活動という意味での「生活」とは離れたものだなとおぼろげながら感じてしまいました。

対して薪を割るという行為は厳しい冬を超え、生きていくために必要不可欠な備えです。こどもはそれを遊びながら学ぶ。乾燥した薪のささくれだった感触やそれを割る手斧の重み、刃の危うさ。わった薪にどうやって火を付けるか、乾燥してない薪は煙がたくさん出て火が付きにくいとか、火の暖かさを感じるとともに距離を誤れば火傷をしたり、火事につながったりする危険な側面。家に火がないときの冬の寒さや心細さ。
そういった生きていくために必要なものを日々体験しながら身につけていく行為が生活なんだろうなと思います。そうして積み上げられていく「生活」が個人を人として強くしていくのではないかと感じました。


焚き火の煙にやられる姪っ子ちゃん

重ねていいますが、もちろん原始的な生活をすべきだ、という極論を言うわけではありません。いままさにこの社会に生かされている状態をきっぱり縁を切って抜け出すというのは現実味のない行為だし、人類の築き上げた知恵を否定するつもりもありません。要はバランスです。(保守派設計事務所を自称する僕の本懐。保守とは懐古主義でなく、過去の良きものを尊重しながらも漸次的前進を望みます。)

ある程度社会には守られながらも、緊急事態が起こり、極限状態になったときには、何かしら工夫をしながら生きていくことができるという自信や安心感みたいなものが持てれば、今回のような危機が訪れても冷静に対処することは難しくないのではないでしょうか。
「不浄の左手」の話は半分冗談ですが、ガスが止まっても火を起こせる、水がなくなっても雨水を濾過できる、食べ物がなくなっても畑がある、トイレットペーパーがなくても葉っぱがある、消毒液がなくても南天がある(お正月の投稿参照)。極端な例えですが日々の暮らしがそういった生きていくすべを学べる「生活」でありたいと切に思うようになりました。

 

強い生き方、住まい方

少し話は変わりますが、今年に入ってからひそかに自邸を建てる計画を進めていました。独立して設計事務所を初め今年で4年目に入りましたが、日々の作業にかまけてなかなか自分の思う設計を世にアピールすることができていないなと感じていました。現状を打破するべくあれこれ手を考えていましたが、やはり設計者たるもの自分の理想とする生活を体現する建物を建て、それを以て世に知らしめねば、ということで意気込んで進めていました。

僕の設計の根底には、家は心の底から安らぎ、安心を感じられる場所でありたいという思いがあります。実に世にありふれた文言ではありますが、心の底、つまり人が根源的に安らぎや安心を感じられる状態とはどんな環境がそうさせるのかを深く突き詰めていくと、その答えは人類(ホモサピエンス)の数十万年の歴史の中にたどり着くのではないかと考えています。

それは例えば暗くなると獣に襲われたり、敵対する群れの襲撃に対する不安が増すなかで、周辺の暗がりや信頼できる仲間や家族を照らす焚き火の明かりや、生きるために欠かせない飲み水や漁ができる水場が近くにあることだったり、丈夫な壁や天井を作った土や木。そういった原初的な要素が暮らしの近くにあることが、人の本能にも触れる深い安らぎや安心につながるのではないかと思っています。


木土鉄石火緑…。どれも心に訴えかける安心感や美しさがある。(うすずみの家より)

主観ではありますが日が暮れてあたりが薄暗くなるころ暖炉の薪に火をともし、その炎の揺らめきや薪が爆ぜる音、ただよう煙の香りを気の置けない人と楽しむ時間ははどんな防犯設備やムーディーな間接照明、サラウンドで鳴らされる環境音にも代えがたい安心感や居心地の良さを与えてくれます。
近年のキャンプブームや某リゾート会社の提案するグランピングなどが人々の心を掴んでいるのは、高度に発展した社会が原初的な安心をもたらすものから離れすぎた揺り戻しではないでしょうか。ここ数十年で形成された新しい認識・価値観よりも、気の遠くなる長い年月をかけて我々の遺伝子に刻まれてのほうを信頼しています。

というわけで、人の居場所には火や水、土、草木など、人類が長く触れてきた要素が多くあればあるほど心穏やかに過ごせると考えています。ただ、自然豊かな地方で実現させるのはまだ手がかりが多くあり容易なのですが、都市の中ではとても難しいことです。
しかし都市の中だからこそそういった要素が多くあるべきです。高度に発展し、過剰とも言えるほどに保護されたた環境の中でも人の本来持っていた感覚や強さを失わないために。

自邸の計画もそういった視点で土地探しを続け、昨年末にとうとう理想に近い場所を見つけました。埼玉県某所、都心からは少し離れますがギリギリ通える場所(嫁への配慮)です。ここに魅力を感じたなによりの理由が敷地西側に広がる大きな沼です。ちょうど夕方近くに訪れたのですが、周りは都市部から少し離れていて田畑にかこまれているのでとても静かで、羽を休める水鳥の様子と西日が反射して煌めく湖面がなんとも美しかったのです。


西日が美しい湖面。下には釣り人が勝手に設置した桟橋があった

こういったそこそこ大きな沼や池はだいたい公有地となっていることがほとんどで、水際には柵が張られ、護岸ブロックで固められた上、とどめは遊歩道や堤防でぐるりと囲まれてしまいます。
「安全性が・・」と言われてしまうともう何も言えなくなってしまうのですが、水辺の良さとは、その際までの距離感が近いほど感覚に訴えてくるものが大きく感じられます。河川だと圧倒される大きな質量の水の流れが目前に迫る感覚、沢のひんやりとした空気やそのせせらぎの音など。どれも得難く、しかしながら大切な要素です。

その沼はもともと周りの農地用の溜池で、今でも100人近い当時の利用者の共同持ち分になっているため、奇跡的に当時の状態に近いまま残っていました。そこに隣接する敷地も池との間には物理的に何の境もなくつながっています。ここなら、思い描いていた「水」の恩恵を大いに受けることができると考えました。


川につながる庭 Lunuganga, Srilanka

その土地に立ち目の前の沼をしばらく眺めながら、こどもが水遊びする姿や池に張り出すデッキで食事をする風景、近所の人が自由に釣りをして遊べる岸辺、西日をきれいに切り出すダイニングの窓。妄想にどっぷり浸っていました。
しかし残念なことにこの自邸の計画は建築基準法上の問題を含んでおり(いわゆる接道問題)、年明けより近隣の地主さんと交渉を続けておりましたがいまのところ打開策が得られず止まっております・・。

話はそれましたが、現代の社会では人が本来の人としての生き方をしづらくなってしまっていて、そのせいで慢性的にストレスをため込んでいます。自分自身、重たい仕事がかさなって忙しくなるとその反動で嫁につらく当たってしまったり、こどもに対して粘り強く向き合ったりできないことがどうしても起きてしまいます。
そんなストレスだらけの日常の中でもせめて帰る場所がそういった心の底から安らぎを感じ安心できる場所であり、本来の姿に戻れる空間であってほしいと思っています。今日のように不安を一層あおられる状況ではなおさらです。

 

社会に対してできること

この自粛期間に物思いにふけっているうち、自分の考えていることややろうとしている仕事は今まさにこう言った状況にこそ生きてくることではないかと思い始めました。この投稿を読んで武川設計事務所が思うこれからの生き方、住まい方に共感いただいた方、この難局に立ち向かうため、気持ちを前向きに保つためにこれからの家づくり、場所づくりを一緒にはじめてみませんか?

いつまでこの厳しい状況が続くかわかりませんが、少しでも多くの方とお仕事できたらと思いますのでしばらくは設計料も負担にならない程度(!)に大いに相談に乗りたいと思います。
意外と認知されていませんが2007年のリーマンショックの時然り、世界の経済的な難局では建築費が大きく下がります。オリンピック特需も終わりここ数年で2~3割高くなっていた異常な状態が落ち着くと思われますので、むしろ建てるには適した時期になります。ぜひ一度ご相談くださいませ。

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